先ずは、この処一向に文章が進まないことを反省せねばならぬ。
本年になって書き留めたものを何の脈絡もなく配置させて頂くことにする。
ちょいと早いが愚痴雑煮である。
懐古
月命日の朝 毎月送迎をしてくれるタクシーに乗って新宿の墓地に行ってきた。
無事に還暦を迎えることが出来た感謝を伝えるためである。
誕生日というと、母と子の自慢大会かのようなパーティーをひらくことがあると聞いたこともある。あるいは、ささやかであっても家族内で子の誕生日を祝うそうだ。
ある時から私は考えを改めた。そして子どもたちに伝えたのは、誕生日は産んでくれた母に感謝する日であると。
20年ほど前にロンドンの研究室にいた時のこと、ある大学院生が研究室に自作の大きなケーキを持って入ってきた。何事が起こったのかと聞いてみたら、彼の誕生日であるとのこと。英国では誕生日には祝ってもらうことばかりではなく、友人や家族にお礼をするのだと聞かされた。納得。
二十歳で結婚し二十二歳で未熟児寸前の私を産んだ。その年に白血病で母親を亡くし悲しみのあまり食事ができず結果私やせ細ったまま出てきた。このことを母は危機が近づいていた間際にも悔み私に謝っていたことを想い出す。
人は誰しも少なからず、親の影響を受けている。 父の跡を継がずに現在の職業を選んだのは母からの影響である。
省みると、中学校へ入る前までは両親ともに厳しく躾けられたようである。
きっと、現代の若い親たちには理解できないような事かもしれない。 三つ子の魂百までもと言われたのは古のことかもしれない、現代は伸びやかに自分勝手な行動を黙認あるいは無関心でいるのではないかとさえ思う。周囲の子どもたちを見ていると昔ながらの教育は決して悪くはないのではないかとすら思う。
暴力では無く体罰を受けながら善悪を学んだと言っても良いであろう。悪いことをすると冷たく硬い板間に正座をさせられた。時には年子の姉も道連れであった。こんな経験は屡々であった。母が厳しかったのはその後であった。中学へ入る時一言いわれた。「もう、大人として扱うから後は自分で律せよ」ということであった。即ちその後は何ら叱られることは無かった。実はこれが一番厳しい言葉だったと思う。
父は未だ健在であるが、最近よくよく父の仕草が目に浮かぶ。この年になってやっと、父と似ていると思えることが出来た。
インフルエンザ・ワクチン
生まれてこのかたインフルエンザに掛かったことがないからインフルエンザに予防接種は不要であるというヒトがいる。あるいは、風邪は滅多に引かないし引いたってたいしたことは無い。という人もいる。
昔のヒトは良く言った○○は風邪引かないって。
こうは言わなくても近い言い方の人もいる。そんなときに少々意地悪な質問をする。「宝くじは買ったことがありますか?宝くじが当たる確率とインフルエンザに罹患する確率はどちらが高いと思いますか?」こうとうと、すかさずインフルエンザ確率の方が高いと答えてくれる。
ジェネリック薬品
一見安く見えるジェネリック薬品であるが、今や先発メーカーよりもテレビ宣伝が多いようにすら思える。即ち広告費用が多額に捻出出来るだけ利益が得られているということであろう。かつて、テレビや雑誌など、非専門家を無駄に洗脳する媒体によりジェネリック医薬品であれば薬局での支払いが半分以下になるという誤解を生む表現が実際には混乱を招いた。何故ならば医薬品代金は安価になったかもしれないが、調剤・服薬指導という技術・指導料に大きな変化はないからである。現実には先発医薬品とジェネリック医薬品によって出費に大きな差が出来ないこともある。にも関わらず、国がジェネリック医薬品を使用するように強く指導するのは政治的な臭がしてならない。今や少数ではあるが与党としている統一的な思想のパーティーへの献金によるものだとの噂を耳にしたことがある。
ジェネリックと先発医薬品を並べられたら、私は先発品を選ぶだろう。理由は簡単である。その先発医薬品に対しての有効性のエビデンスが揃っていることと、次の新薬開発の研究費となってほしいからでもある。
薬効に関しては必ずしも同等ではないと、実際に服薬されている方から言われることが多い。一般名処方するので、どのジェネリック製薬会社の製品であるとは特定できないが、薬効に関して不評なものがあるのは否めない。すなわち、一回の出費が安価であっても治癒までに時間がかかるのであれば結局出費は嵩むことになる。
新薬開発費に寄与するか、政党への献金に寄与するかという選択かも知れない。
馬鹿親
自由、ゆとり教育、奔放
教育と放任を履き違えているのでは?単に親の躾の手抜きを回避する言葉として便利に使っているのではないかとすら思う。公衆の面前で悪戯をし騒ぐ我が子を叱るのではなく、単に怒るだけの親。貴女が先ずはなすことは、周囲の人々に謝罪することであろう。その姿を子らに見せれば自ずとマナーを得ると思うのだが。初老の贅沢な望みだろうか。
選挙
さして美人でも能力が秀でているわけでもなく、数だけ勝負のグループ芸能人でさえ「総選挙」なるものをしているではないか。政治は数だというのなら、高額で人間を雇わなくとも会議場にイエスマン人形を並べておけば良いのではないか。野次を飛ばしたり居眠りをすることだけでは税金の浪費の何者でもない。政治に無関心なのではないが、酒場で繰り広げられる我物顔のように論評できる訳でもない。おらが街に道路を敷いてくれるから有り難い政治屋サンに票を投ずるつもりもない。おもちゃの水飲み鳥のように腹が満つるまでは平身低頭であるが、票で満たされると踏ん反り返る。選挙の度に繰り返す。そんな輩が多いのではないか。どのようなポリシーを持っているのか判りづらい。さてはて、今回は何処の団子屋を選ぶべきか未だ迷う。
はて、
本年締め括りの時間まであと僅かとなった。
自分自身の反省は未だしていない。これでは後味がまずい。
来年こそは、我慢しながらでも自身の言葉を発するときは相手に気遣わねば。また、他人を評するよりも自信を律することに努めねばならない。
短気な私に可能かなぁ、と独り言つ。
最も大切で忘れてはならぬ事。
当院を支えて下さっている患者様・職員など周囲の人々、そして我が家族・親族に感謝感謝である。
これで、やっと無事に年を締められる。