キャリーバッグを引きずりながら、病院を後にした。都会の空でも、青くすんでいれば病室から見る外界に競べると遙かにすがすがしく感じた。その日は土曜日、即ち手術を受けた2日後であった。家族は私の退院時に迎えに来ると言ったが、大病をしたつもりでもなかったし、開腹術ではなく腹壁に4カ所孔を開けただけであるので体力の衰えも感じていなかったので迎えに来よりも早くに病院を出てしまった。病室から出てくるとき、看護婦とすれ違っても背中なんて曲げている必要なんて無かった。外に出れば外界の空気を吸うために胸を張って濶歩した。タクシーを止めると一路帰宅の途についた。
そういえば、摘出された胆嚢も胆石も私は見覚えが無かった。帰宅後、家内に渡されたホルマリン瓶の中に入れられた物は疝痛の犯人であった。大きさは不揃いであるが4mm角前後のサイコロのような結石が40個ほどあった。その重さ2.7g。実際に私の胆嚢の中には、泥状の砂も大量にあったはずである。まあ、これらの物を取り除けば、あの忌まわしい心窩部痛とは縁が無くなるので安堵する。
(ヤブ医師の腹からでた 石 )
僅か一週間前に、胆嚢摘出術を受けたとは思えないほど元気に過ごし、通常通りに診療をしていられることは有難い。その要因は何であろうかと考える必要がある。やはり外科医と麻酔科医の腕であろう。一週間考えてもこの答えに変わりは無い。還暦に近い私の体力やプラセンタ注射が少々役に立ったとしても、前者の要因に勝ものでは無い。同じ手術を受けた方たちのお話を聞くと、私の驚異的に良好な術後経過はトクベツのようである。痛みを麻薬を使うことによって徹底的に軽減したことも術創の確実な回復の一助になったはずである。手術をしたから痛むのは当たり前なんて考えは麻酔科医時代の私にも無かったが、一昔前ではそれが常識であったし現在でもその過去の認識の医療者は多いと思う。痛みを軽減させれば創部への血流量は確保され、また無駄な筋の緊張も起きず、ひいては傷の治りが早くなるはずである。現に私の傷の回復は非常に早い。
話が飛ぶように思われるかもしれないが、日本の保険医療制度について少し触れねばならない。今の保険医療制度では、誰が医療を行ったかでは無く、何をしたかということしか評価されない。即ち医療技術という目に見えない物に関しては全く評価されず、検査だの薬品だのという物への対価としのみ評価されている。もちろん、大勢いる医師の技術ランクを決めるのは難しいことであって、仮にランキングの有無によって医療収入に違いが生じれば不公平であるという、底辺にしか価値観をみとめない公平論者の標的となろう。現状では、研修医が医療を行っても、同じ事を専門医や教授が行っても、皆仲良しオトモダチ政策によって同一に評価されることに甘んじるしか無い。そうなると、患者としてはまともな医師に当たることを祈るか、そうなるように工作するしかない。あるいは、当たり外れのあるクジビキみたいなものである。この天運に任せるしか方策は無いのであろうか。駄策かもしれないが、チップ制度即ち医療サービスを受ける患者が評価・感謝して診療費に上乗せするのも良いであろう。現に、大病院などでは教授に診察や手術をしてもらうには幾ら包めば良いのかと、堂々と囁きが飛び交うのである。ならば、患者側が評価した金額を御礼金として乗せればいいのであると考える。なぜかというと、医療技術は必ずしも○○専門医だから旨いとか、教授の方が助教授よりも勝っているという事は無いのである、なぜならそれらの地位は、医療技術では無く論文書きの技術で評価されているからである。
こんな事を書くと、公平と平等をはき違えている方たちから攻撃を受けるかもしれない。結局お金のない人たちは良い医療が受けられないのか、金持ちだけが優遇されるのかと。今の私には、この問題に関して的確な答えを見い出せない。ただ、公平な医療制度の裏側で、職位に応じたお礼金が存在するというのは何処かの共産社会と似ているのではないかとさえおもう。平等の裏には金在りか。
まあ、何はともあれ私は超ラッキーであった。出身大学の後輩の大病院で、優秀な外科医と麻酔科医によってこんなにも平穏に術中術後が過ごせたのだから。
感謝の念に堪えない。
それにしても、世の中の外科医の多くは医師のための手術を行い、麻酔科医は術中の麻酔のみに関心を抱いていると思っていたが、今回のように術後の早期回復まで計算に入れられた外科医・麻酔科医のチームが広がらんことを切に願う。現役麻酔科医で無いのが少々残念だな。とひとりごつ。